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パリの都市改造との比較から,パリでは道路や緑地整備などを中心とした都市全体のシステムの再構成に重点を置いたのに対し,ブリュッセルでは都市全体を街路網により有機的に統一するまでは至らず,また「森一公園-スクウェア」と序列を持った緑地のシステム化を形成するには最小の緑地グループの整備が少ないという特徴が判明した。しかし主要な整備の分析から,ソワーニュの森を通るブリュッセル独白の構成を持った循環路の形成も確認した。パリの影響は部分的な形態の模倣だけではなく,豪華な並木のある広幅員道路や公園緑地整備とそれらを有機的に結びつけることの成功がもたらす国威の発揚や近代化のイメージ,また社会,経済的な触発の効果であった。つまり形式的特徴よりも大通りや緑地整備の効果や意義が重要視され模倣される構図が明らかになった。 オスマソ主義の実践のへ反動の考察からは,歴史性や地域性,親密性,活気等の文化的価値が再認識され,都市や地区全体を有機的存在としてみなし,部分以上に全体の果たす役割を重要視する理念が見られた。この背景には市民の文化的成熟と都市計画理念や手法の変革があった。この中世主義的指向は田園郊外の親密な空間構成の計画へ引き継がれた。これは為政者から市民への都市の主体の社会的変動でもあった。 次に田園都市理念であるが,1920年の低廉住宅全国会議の論議から,第一次世界大戦後,外国に避難していた技術者により正確に認識され,戦後の危機的な住宅不足を解決するとともに,労働者に緑豊かな生活環境を保障する理想像として受容されたことが考察された。イギリスの田園都市理念との比較からは,土地所有の制限と協同組合の方式だけが社会秩序維持に有効で経済的である面から特に注目されたことが判明した。ブリュッセルで22カ所の田園郊外を確認した。それらの特徴は市街地のすぐ外側に位置し職場や公共施設等は自己充足せず外郭に多くを依存した田園郊外であった。1925年の「田園都市に関する基準法」案等の分析から,この頃より田園郊外のもつ緑が豊かで低層低密な空間構成の手法は既存の住宅地の計画手法との融和がなされ,建築手法や協同組合方式は用いられなくなったことが判明した。 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19世紀後半から20案紀前半の都市計画理念がブリュッセルの緑地形成に及ぼした影響
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名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
---|---|---|
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|
Item type | 紀要論文 / Departmental Bulletin Paper(1) | |||||
---|---|---|---|---|---|---|
公開日 | 2012-03-07 | |||||
タイトル | ||||||
言語 | ja | |||||
タイトル | 19世紀後半から20案紀前半の都市計画理念がブリュッセルの緑地形成に及ぼした影響 | |||||
タイトル | ||||||
言語 | en | |||||
タイトル | The Contribution of City Planning to the Formation of Open Space in Brussels from the Mid-19th to the Mid-20th Century | |||||
言語 | ||||||
言語 | jpn | |||||
資源タイプ | ||||||
資源 | http://purl.org/coar/resource_type/c_6501 | |||||
タイプ | departmental bulletin paper | |||||
著者 |
平岡, 直樹
× 平岡, 直樹 |
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出版者 | ||||||
出版者 | 信州大学農学部附属演習林 | |||||
引用 | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | 信州大学農学部演習林報告 37:163-257(2001) | |||||
書誌情報 |
信州大学農学部演習林報告 巻 37, p. 163-257, 発行日 2001-03-01 |
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抄録 | ||||||
内容記述タイプ | Abstract | |||||
内容記述 | ベルギーの首都ブリュッセルは,オスマン主義と田園都市理念の双方から強い影響を受けた唯一の都市である。前者はフランス,後者はイギリスに生まれ,世界的に影響した都市の近代化の論議に不可欠の理念である。本論文の目的は,2つの理念の受容や展開の過程の特徴,また外来の計画理念の実際の適用と変容,批判や反動の分析から,理念の果たした意義とブリュッセルの独自性,そして理念の伝播や変容の中で緑地形成の性格や価値の変遷を明らかにすることである。研究の方法は,整備当時の歴史的文軌図風地図,写真の収集整理や検討とともに,現在の研究資料等も検討し,さらに現地調査を基に分析を行った。 以下に明らかになったことを要約する。 まずオスマソ主義であるが,当時の市長と国王の著述等の分析を行い,国家権力の直接的な指導により都市整備を行う当時の政治形態に適したことから為政者の主導による受容であったことを考察した。また積極的な受容の要因としては,新興国としての威厳を創る首都整備の手法に加え,生産や流通等の社会の経済活動を活性化する整備,衛生改善,社交場の整備を同時なしうることで当時の社会状況に適していたことがあった。 手法や場所,規模,歴史と関連から一連の整備を3つの時期に分けた。前期の整備(1859年頃~)は中心部改造に始まる旧城壁内の一部及び隣接する地域で衛生改善や美化を目的として,中期の整備(1873年頃~)は郊外拡張美化計画を基に環状大通りに沿った地域を中心に環境の良い市街地の計画的拡張を意図して,後期の整備(1895-1910年頃)は東部の郊外へ拡大して緑地整備を中心として行われた。 パリの都市改造との比較から,パリでは道路や緑地整備などを中心とした都市全体のシステムの再構成に重点を置いたのに対し,ブリュッセルでは都市全体を街路網により有機的に統一するまでは至らず,また「森一公園-スクウェア」と序列を持った緑地のシステム化を形成するには最小の緑地グループの整備が少ないという特徴が判明した。しかし主要な整備の分析から,ソワーニュの森を通るブリュッセル独白の構成を持った循環路の形成も確認した。パリの影響は部分的な形態の模倣だけではなく,豪華な並木のある広幅員道路や公園緑地整備とそれらを有機的に結びつけることの成功がもたらす国威の発揚や近代化のイメージ,また社会,経済的な触発の効果であった。つまり形式的特徴よりも大通りや緑地整備の効果や意義が重要視され模倣される構図が明らかになった。 オスマソ主義の実践のへ反動の考察からは,歴史性や地域性,親密性,活気等の文化的価値が再認識され,都市や地区全体を有機的存在としてみなし,部分以上に全体の果たす役割を重要視する理念が見られた。この背景には市民の文化的成熟と都市計画理念や手法の変革があった。この中世主義的指向は田園郊外の親密な空間構成の計画へ引き継がれた。これは為政者から市民への都市の主体の社会的変動でもあった。 次に田園都市理念であるが,1920年の低廉住宅全国会議の論議から,第一次世界大戦後,外国に避難していた技術者により正確に認識され,戦後の危機的な住宅不足を解決するとともに,労働者に緑豊かな生活環境を保障する理想像として受容されたことが考察された。イギリスの田園都市理念との比較からは,土地所有の制限と協同組合の方式だけが社会秩序維持に有効で経済的である面から特に注目されたことが判明した。ブリュッセルで22カ所の田園郊外を確認した。それらの特徴は市街地のすぐ外側に位置し職場や公共施設等は自己充足せず外郭に多くを依存した田園郊外であった。1925年の「田園都市に関する基準法」案等の分析から,この頃より田園郊外のもつ緑が豊かで低層低密な空間構成の手法は既存の住宅地の計画手法との融和がなされ,建築手法や協同組合方式は用いられなくなったことが判明した。 造園家ヴァソ・デル・スワールメソの作品や著作の分析から,田園郊外の計画理念は均質な建築の意匠にょり統一性のある有機的な街区構成を実現し,田園郊外と公園緑地をパークシステムの中に織り込み有機的な市街地形成を図り,規模や位置を適切に算した衛星都市の配置による均整のとれた都市網形成の構想を目指すという,ブリュッセル独自の星状都市の理念に発展したことが判明した。19世紀後半から20世紀前半の緑地整備全体を通してみると,郊外での大規模公園緑地整備から郊外での住宅周りの小緑地整備,そして市街地内での高層住宅周りの小公園緑地整備と,都市と田園,建築と緑地の関係が空間的,形態的に変化したことが特徴として挙げられた。緑地は19世紀後半には威厳を持った都市,20世紀前半には快適な生活環境を演出する重要な装置とみなされ,新しい都市計画理念を適用するときの象徴的空間であった。緑地の量と質,形態が社会や生活環境の価値の指標であったのである。 | |||||
資源タイプ(コンテンツの種類) | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | Article | |||||
ISSN | ||||||
収録物識別子タイプ | ISSN | |||||
収録物識別子 | 0559-8613 | |||||
書誌レコードID | ||||||
収録物識別子タイプ | NCID | |||||
収録物識別子 | AN00121330 | |||||
出版タイプ | ||||||
出版タイプ | VoR | |||||
出版タイプResource | http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85 |